平将門、反乱して新皇の称号を名乗る!命日は?祟りって本当?

平将門といえば大手町にある首塚が有名ですよね。

この首塚を壊そうとするものには祟りがあるといわれてますが、本当でしょうか。

平将門

10世紀に将門は関東8カ国を制圧すると、茨城県の石井郷(岩井市)という地名を新都として、自らに「新しい天皇」という意味で新皇という称号をつけます。

これはいうまでもなく天皇に対する反乱でした。


朝廷は藤原忠文(ふじわらのただぶみ)を征夷大将軍に任命し、将門討伐を託します。

68歳の高齢だった忠文は老体を押して東国に向かったものの、到着する前に、将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれます。

命日は940年の2月14日(旧暦)だったといわれております。
年号はともかく日付はバレンタインデーなので覚えやすいのではないでしょうか。

平将門が東国を支配していたのは数ヶ月程度と短い期間でしたが、将門は英雄となり数々の伝説が語り継がれております。

成田山新勝寺は藤原秀郷らが将門追討の護摩を焚いて祈ったといわれておりますが、将門とその家来の子孫は今でも新勝寺には参拝しないといいます。

将門の生い立ちにもなる千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も新勝寺には参詣しない傾向があるといいます。

千葉県市川市大野にもまさかどの伝説が語られており、この周辺住民には板橋の名字を持つものが多いそうですが、将門の家臣の末裔だと語り継がれております。

また、この地域の人も成田山新勝寺にはいかない傾向があり、参拝をすると祟りが起こるという言い伝えがあるそうです。

討伐後、将門は京都でさらし首となったそうですが、夜な夜な「体を返せ」と叫び続けたといわれております。やがて首は関東まで飛んでいき、落ちたそうです。

その落ちた場所にあるのが有名な大手町の首塚とされております。

この首塚は取り壊しなどが取り壊しなどが計画されましたが、災難が起こっております。

1923年に大蔵省が全焼したため、この首塚を壊して大蔵省の仮庁舎を建てます。

しかし、大蔵省関連者に原因不明の死や怪我が多発したため、祟りだと恐れられて仮庁舎の一部を取り壊して首塚を復活させました。

また終戦後、米軍のGHQがこのあたりに駐車場を作ろうとして工事を進めますが、その過程でブルドーザーが横転して2人が亡くなるという事故が発生しました。マッカーサー司令部に出頭して陳情を繰り返したところ、首塚を残すことが了承されたといいます。

平将門との首塚

1000年以上経過しているのに、これだけ数々の伝説が残る人物はめずらしいと思います。

朝廷はこの時代、東国の討伐を繰り返していましたが、民衆にはかなりの恨みをかっていたようです。

そのような背景で反乱を起こした将門は英雄視され、称えられと考えられます。

関東から東北にかけては将門を祭る神社が多く存在し、また毎年多くの場所で将門に関する祭りが行われております。


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