織田信長に追放された「足利義昭」、本能寺の変の黒幕?家計図は? 

足利義昭といえば室町幕府の最後の将軍となった人物です。

織田信長に擁立されて将軍の座につくことになりますが、後に信長の反感をかって京都から追放されてしまいます。


足利義昭は12代将軍、義晴の次男ですが、出家して覚慶(かくけい)と名乗っておりました。
そのあたりの相関の詳細は家計図を確認してみてください。

出家していたというこは将軍候補からは、はずれていたと思われますが、13代将軍で兄の義輝が松永久秀らに暗殺された際に僧侶をやめます。
この時点で将軍になろうという野望が芽生えたのかもしれません。

足利義昭画像


義昭は1568年に、信長に擁立されて15代将軍の座につきます。
信長と義昭の仲を仲介したのが朝倉家の重臣であった明智光秀だったといわれております。

信長は義昭のために二条新御所を新築するなどしますが、義昭は政治の実権も握ろうとして信長と対立するようになります。

1570年に信長は天下の実力者は将軍ではなく自分であるといった内容の「五ヶ条の条書」を義昭に突きつけますが、これを拒絶して二人の対立は決定的となります。

義昭は妥当信長の書状を各地大名に送って、挙兵します。

浅井、朝倉らと交戦していた信長ですが、これによって武田信玄が動きだし、窮地に追い込まれます。

信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたりしますが、義昭は受け入れませんでした。

しかし信玄が病に倒れることで事態は変わります。

義昭は降伏することになり、京都から追放され、室町幕府は滅びます。

あの信長にここまでしたのですから追放程度で済んだのは不思議だといえます。
信長も将軍ということで遠慮したのかもしれません。

その後、毛利家に身を寄せていた義昭ですが、信長への復習をやめようとはしませんでした。

しかし、体制を立て直した信長は、浅井・朝倉家を滅亡させ、その後、長篠の戦いにおいて武田軍にも大勝していよいよ天下平定へと向かいます。

足利義昭の像

義昭は京都を追放されましたが、依然、征夷大将軍の座にはついておりました。

信長亡き後、秀吉は1588年に義昭を京都に戻します。

そして義昭の後継者となって征夷大将軍の地位につこうとしましたが、義昭は拒否しました。

しかし、このことで信長と義昭のような関係になることはなかったようです。
秀吉も信長の失敗をしっていたので、義昭との争いは避けたのかもしれません。

もっともこのときには義昭の権力は対してなかったので争いにならなかっただけとも考えられます。

義昭は出家して昌山道休(しょうざんどうきゅう)と名を改めますが、秀吉からは所領を与えられます。また、朝鮮出兵の際は、秀吉の軍勢として出陣もしております。

最後は1597年に病死しました。


本能寺の変の黒幕は足利義昭だったという説もあります。

前にも述べましたが、光秀は義昭と信長をつなげる仲介役となっており、義昭とはなんからの関係があったと推測されます。

義昭は信長に恨みをもっていましたし、光秀と通じて、信長を打つチャンスを伺っていた可能性も十分にあります。


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