フィリピンのマニラに追放されたキリシタン大名「高山右近」の生涯

高山右近といえばキリシタン大名として有名です。

いったいなぜ有名なのかというと、その生涯をしれば理解できると思います。

彼は父がキリスト教の信者であることもあり、洗礼を受けることになりました。
12歳のときだったといいます。

高山右近 マニラ追放


やがて成長した右近は高槻城城主として荒木村重の配下に入ります。
荒木村重は織田信長の部下です。

信長といえば仏教の勢力と対立していて、キリスト教の宣教師たちを厚くもてなします。信長には数々の敵がおりましたが、最も激しく長く渡り合ったのが、仏教勢力であります。

当時はお寺などが強い既得権益をもっている時代でしたが、信長は改革をすることによって対立を深めていきます。

キリスト教徒の右近にとっては、信長は宗教的な味方になるのかもしれませんが、1578年に村重は信長に対して謀反を起こします。

このとき右近は寝返って信長に投降し、高槻城城主の座と4万石を与えられます。


本能寺の変の後は、右近は秀吉に使え、教会などを設立してキリスト教の布教に努めます。

しかし、転機が訪れます。初めはキリスト教布教を容認していた秀吉ですが、バテレン追放令を出します。

これはキリスト教を禁止として、宣教師は20日以内の国外退去せよといった内容のものでした。

キリスト教徒によって、神社などの打ち壊しなどが問題になっていた背景があったようですが、「神国である日本でキリスト教を布教することはふさわしくない」といった理由からでした。

秀吉は右近についても神と自分どちらに仕えるのかと問い詰めます。

下手をすれば今まで気付け上げてきたもののすべてを失うような選択ですが、ここで右近の答えはなんと「神に仕える」でした。

すべてを失ってでもキリスト教を選ぶというのですから、右近の信仰の強さが伺えます。

秀吉は右近の領地を没収して追放しますが、キリシタン大名の小西行長にかくまってもらいます。


秀吉の死後は家康の時代となりますが、初めは家康もキリシタンには寛大に接しておりました。

しかし、一転して1613年にキリシタン禁止令を出します。

このとき前田家にいた右近にも、信仰を捨てなければ国外追放するといった勧告が突きつけられました。

すでに高齢になっていた右近にとっては国外追放はとても厳しい選択です。それでも右近の信仰心は薄れませんでした。

彼は国外にいくとこを選び、金沢から長崎へ向かいます。
そのときはキリストにならって裸足で長い道のりを歩きぬいたといわれております。

右近は長崎から船でフィリピンのマニラに向かいますが、事情を知っていたマニラの人々は大勢で歓迎して向かえたそうです。

右近はマニラ到着後は熱病にかかって1ヶ月あまりで亡くなってしまいますが、手厚い葬儀が行われ、銅像まで立てられました。

この銅像は今でもマニラに建っております。

高山右近の銅像

その生涯から右近は何よりもキリスト教最優先を貫き、すべてをささげてきたことがわかると思います。

キリシタン大名の代名詞というのも、うなづけるのではないでしょうか。




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