消えた赤穂浪士、寺坂吉右衛門(寺坂信行)。墓は仙台?伊豆?

赤穂浪士(あこうろうし)に生き残りがいたのはご存知でしょうか。

この浪士たちは四十七士ということになっていますが、四十六士であるという説もあります。

討ち入り後、点呼をとったときには47人全員がいたそうですが、姿を消してしまった人がいるのです。

その男の名は寺坂吉右衛門(寺坂信行)といいます。

寺坂吉右衛門(寺坂信行)


1702年、播磨赤穂城手である浅野長矩(あさのながのり)は、侮辱を受けたらしく、江戸城松之大廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかります。

殿中での狼藉に将軍、徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹させられます。

当時は喧嘩両成敗の法があったようですが、吉良上野介にはなんのお咎めもありませんでした。

これに不満をもった赤穂藩士たちは敵討ちということで屋敷に乗り込み、吉良上野介を討ち取ります。

当時は討入りは死罪でしたので、赤穂浪士たちは自首をしますが切腹となってしまいます。
これはあらかじめ覚悟していたことであり、藩の結束の強さがわかります。

当時も今も許されることではないですが、歌舞伎やドラマとなって今でもこの話は語り継がれているのがわかるような気がします。

中には10代の浪士もいたそうです。
首謀者の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の息子、大石良金(おおいしよしかね)はわずか16歳でした。

大石内蔵助は身辺整理で妻と別れますが、大石良金は討入り前に母に会いにいきます。
しかし、母は大石良金を冷たく引き離したといいます。

父を助けろという意味だったのか、あるいは止めたのに聞かなかったので、いまさら顔を合わせたくもなかったのかはわかりませんが、寝床についた良金の部屋の戸がそっと開けられ、母が寝顔をみつめていたという逸話があります。

良金はそれに気付いておりましたが、そのまま眼を閉じたまま寝たふりをしていたのだそうです。


討入りのときには寺坂吉右衛門もいましたが、切腹には加わっておりません。

これには大石内蔵助の命令で吉右衛門が戦列から離れたという説と、単に逃亡したという説があります。

しかし、その後の吉右衛門の行動を見る限りでは逃げ出したようではないようで、どうも討入り後の連絡係を務めたようです。

3年後に吉右衛門は自首しますが、綱吉の母により放免されております。

花岳寺の赤穂浪士墓所

その後、吉右衛門は40年あまり生き延び、なんと83歳まで生き続けます。後に他の赤穂浪士が葬られた、泉岳寺に供養墓が作られました。

墓は全国にいくつかあり、どれが本物なのかはわかりません。

仙台市泉区市の実相寺、福岡県八女市の一念寺、静岡県賀茂郡西伊豆町の慈眼寺などにあります。


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