徳川秀忠が遅刻?遺骨に銃創跡?武家諸法度の元は分国法?幼名は?

徳川秀忠といえば、いわずと知れた徳川家康の息子で江戸幕府2代将軍です。

3男ですが、長男の信康は自刃に追い込まれ死亡、次男の秀康は豊臣秀吉の養子となっていたために、後継者に選ばれました。

幼名は竹千代(たけちよ)で、家康の幼名と同じです。
ちなみに秀忠の息子、家光も幼名は竹千代だったといいます。

徳川秀忠


武将としては関ヶ原の戦いへの遅刻など、愚将のイメージが強いです。

秀忠はそのとき3万8千もの大群を預かっていました。
これは本隊、家康の軍勢よりも多かったといいます。

秀忠は関ヶ原に向かう途中に真田昌幸の籠城する上田城を攻略しようと試みます。

上田城の兵力は2000程度でしたので、楽に片付けられると思って攻めたのでしょうが、思わぬ苦戦で一週間たっても攻略できません。

しかたなく諦めて関ヶ原に向かいますが、大雨や川の氾濫などで足止めを食らってしまいます。


秀忠が関ヶ原についたのは、この天下分け目の戦いが終わってから3日後、家康はこれに激怒したといいます。

秀忠が上田城を諦めるタイミングが遅かったのかもしれませんが、川の氾濫などでの足止めは自然災害で不運なところもあります。
ただ、現状の知らせを家康にするのを怠っていたのではないかとも考えられます。

それにしても、こんな大切な戦いで別働隊が到着する見込みもないまま、戦を開始してしまったのは徳川軍の連携の悪さを感じます。

連携や機用などにおいて家康の責任も大きいと思います。

大阪冬の陣では秀忠は汚名を返上すべく、先陣に立って戦ったといいます。秀忠の遺骨には銃創(銃で撃たれた跡)が複数あったといいます。

徳川家康

家康は江戸幕府を開くと2年後には早々と秀忠に将軍職を譲ります。

ところが実際は大御所として君臨し、実権は握ったままの院政でした。
この体制は10年ほど続きましたが、秀忠は家康の意のままに従う姿勢をとり続けたようです。

家康の死後はいよいよ秀忠は、その手腕を発揮します。

武家の守るべき義務19か条を定めた「武家諸法度」を発布して、これに違反すると領地を減らされたり家を取りつぶされたりしました。

これは戦国時代に戦国武将が自国を総べるために定めた武家法である分国法が手本になっていると思われますが、江戸幕府300年体制の基盤となりました。

徳川家の家計図についてはこちらを参照してください。


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